「蝶」怖い話RX

……

疲れていたのだという
「公私共にイロイロ重なってましてねェ……。朝もウッカリ二度寝しちゃって、遅刻しちゃったんですよォ」
ピカわの仕事場は会社の四階にあった。その階の東面は、傾斜した天窓風の上段とベランダに通じる下段の、一面窓になっているのだが、現在はプロッターと呼ばれる大型のカラープリンターが並んでおり、下段の窓はロールスクリーンが下ろされたまま封鎖された状態だった。ただし、上段のロールスクリーンは開けられており、春の日差しが降り注いでいた。
ピカわがトイレに立った時、何気に東面の窓が視界に入った。上段の窓の中で、何かが動いている。ここ数年でガクンと視力の落ちた目を細めてよく見ると、下から伸びた腕が雑巾で上段の窓の中央辺りを拭いていた。
「服の袖とかは見えなくて素腕でした。スラリと細かったんで、女のヒトの腕っぽかったですね。真っ白な雑巾で円を描くようにガラスを拭いてたんですよ。まぁ、ミンナが仕事してるのに一人だけ窓拭きしてるなんて変だなァとは思いましたよ。それと、ウチの会社にこんなに背の低いヒトって居たっけ? って疑問もね……」
下段の窓はベランダに出る際には誰もが身を屈まなくてはならない高さだ。上段の窓の中央まで手を伸ばそうものなら、普通なら窓拭きをする者の顔が覗くはずなのだ。ピカわは相手を確かめようと窓に近づいた。すると、腕はまるで逃げるように、窓から窓を横切り、端まで行くと下段の窓へと沈んだ。
「ロールスクリーン越しに、クッキリと雑巾の黒い影が見えたんですよ。それで、気づいたんです。太陽は東にあったんで、誰かいればロールスクリーンに影を落とすはずなのに、あの腕から下には影は全く無かったんです」
ピカわはベランダに出てみたが、やはり誰も居らず、ロールスクリーン越しには下に落ちたように見えた雑巾も何処にもなかった。
「まぁ、風が強かったんで、舞っていたゴミでも見間違えたかなと思ってるんですけどね。視力もかなり落ちてますし。免許書き換えの時に再検査でギリギリ眼鏡を回避できたぐらいなんで……」
零時過ぎまで残業したが、その後は特に何も無かったという